2010年3月13日(土)東京都市大学環境情報学部で行なわれた「ソーシャルメディアの現在」シンポジウムは盛況のうちに無事終しました。
来場者140名以上、ネット中継(ustream)視聴者70名以上、twitterのハッシュタグへの書き込み多数、ということで、盛況のうちに終了いたしました。ありがとうございました!
以下は、シンポジウムの概略です。
Nota Inc. CEOの洛西一周さん、「情報デザイン入門」の渡辺保史さん、「アーキテクチャーの生態系」の濱野智史さん、 横浜コミュニティデザイン・ラボの杉浦裕樹さん、Finlandで地域とICTの研究をされている Kari Kuuttiさん他を講師としてお招きして、ソーシャルメディアの現在と未来を明らかにして頂きました。
また、京都大学総合人間学部 杉万俊夫さん、筑波大学人間総合学部 茂呂雄二さんらをお招きして、ソーシャルメディアに限定されない、多様で複雑な活動や人々の社会的つながり方の拡大と学習についてのセッションも行なわれました。
さらに、ライトニングトークのセッションでは、学生、卒業生に彼らのソーシャルメディア生活や開発を語ってもらうことを通して、現代を表現して頂きました。
東京都市大学環境情報学部 上野直樹研究室ブログ
Tokyo City University, Faculty of Environmental and Information Studies, Naoki Ueno lab blog
2010年3月15日月曜日
2010年2月16日火曜日
twitterとその文化的透明性
昨日の濱野さんをまねいてのシンポ「ソーシャルメディアの現在」(3月13日)の打ち合わせ会での議論では、将来のwebシステム、人々や活動の繋がりのデザインについて多くのヒントが示された。
ここでは、twitterで流したメモを元に、そのごく一部の議論だけ速報する。全体の議論については、今後できるだけはやく整理してこのブログにアップする予定。
濱野さんを囲む会で議論されたことの一つは、twitterの”わかりやすさ”の問題だった。一方で、twitterそれ自体は非常にシンプルなシステムだが、twitterがどういう文脈で、どういう形で使われているかということは案外わかりにくい。ソーヤー氏は、これをレイヴ&ウェンガーの言うところの「人工物の文化的透明性」の問題であると指摘した。
twitterの道具としての「文化的透明性」を考えるとき、見ておかなければならないことは、twitterはそれ自体としてではなく、様々なwebやメディアとの連関のもとで、また、ネットやリアルにおける様々なローカルなコミュニティとの連関のもとで用いられているということである。そして、twitterは、その様々な連関の中で、様々な使われ方をしている。
こういう様々なものの連関、布置のもとでのtwitterということが少しでも見えないと、twitterは、意味不明な、文化的に不透明な道具になる。
逆に、実際にtwitterがどういう生活の中で、どう使われているかが垣間見えれば、道具としてのtwitterの文化的意味が理解可能になる。濱野氏は、こういう点を指摘された。
一例をあげてみよう。wordは、操作としては複雑でわかりにくい。しかし、文化的には透明なツールである。逆に、twitterは、操作としてはもっともシンプルだが、twitterが用いられる文脈、生活は、見えにくい。
以上のような道具の人工物の文化的透明性の問題は、結局、twitterだけではなく、全てのソーシャルメディアに関して言えることだ。そうであるとするなら、ソーシャルメディアの使用は、個々人のメディアリテラシーとしてではなく、ソーシャルメディアの様々な連関へのアクセスの問題として議論されるべきである。
まさに、「道具のわかりやすさ」は、操作や見かけのわかりやすさの問題ではないし、また、道具を使う個人の能力の問題ではない。むしろ、道具を用いる実践へのアクセスの問題であるということを改めてソーシャルメディアに関連させてきちんと考えてみる必要があると思う。
道具としてのwordとtwitterの文化的透明性を比較するなら、メディアリテラシーということを根本的に考え直す必要があることが明らかになる。
「情報デザイン」ということに関して言えば、これは情報をわかりやすく、綺麗に表現する技術なのではなく、人工物をめぐる様々なアクセスのデザインであると再定義できる
レイヴ&ウェンガーの「状況的学習論」の人工物の文化的透明性の議論は、現代のソーシャルメディアにも使えると同時に、ソーシャルメディアについての文化的透明性を見ていくことで、状況的学習論の新たな展開も可能になると思う。
残りの議論は続報で。
ここでは、twitterで流したメモを元に、そのごく一部の議論だけ速報する。全体の議論については、今後できるだけはやく整理してこのブログにアップする予定。
濱野さんを囲む会で議論されたことの一つは、twitterの”わかりやすさ”の問題だった。一方で、twitterそれ自体は非常にシンプルなシステムだが、twitterがどういう文脈で、どういう形で使われているかということは案外わかりにくい。ソーヤー氏は、これをレイヴ&ウェンガーの言うところの「人工物の文化的透明性」の問題であると指摘した。
twitterの道具としての「文化的透明性」を考えるとき、見ておかなければならないことは、twitterはそれ自体としてではなく、様々なwebやメディアとの連関のもとで、また、ネットやリアルにおける様々なローカルなコミュニティとの連関のもとで用いられているということである。そして、twitterは、その様々な連関の中で、様々な使われ方をしている。
こういう様々なものの連関、布置のもとでのtwitterということが少しでも見えないと、twitterは、意味不明な、文化的に不透明な道具になる。
逆に、実際にtwitterがどういう生活の中で、どう使われているかが垣間見えれば、道具としてのtwitterの文化的意味が理解可能になる。濱野氏は、こういう点を指摘された。
一例をあげてみよう。wordは、操作としては複雑でわかりにくい。しかし、文化的には透明なツールである。逆に、twitterは、操作としてはもっともシンプルだが、twitterが用いられる文脈、生活は、見えにくい。
以上のような道具の人工物の文化的透明性の問題は、結局、twitterだけではなく、全てのソーシャルメディアに関して言えることだ。そうであるとするなら、ソーシャルメディアの使用は、個々人のメディアリテラシーとしてではなく、ソーシャルメディアの様々な連関へのアクセスの問題として議論されるべきである。
まさに、「道具のわかりやすさ」は、操作や見かけのわかりやすさの問題ではないし、また、道具を使う個人の能力の問題ではない。むしろ、道具を用いる実践へのアクセスの問題であるということを改めてソーシャルメディアに関連させてきちんと考えてみる必要があると思う。
道具としてのwordとtwitterの文化的透明性を比較するなら、メディアリテラシーということを根本的に考え直す必要があることが明らかになる。
「情報デザイン」ということに関して言えば、これは情報をわかりやすく、綺麗に表現する技術なのではなく、人工物をめぐる様々なアクセスのデザインであると再定義できる
レイヴ&ウェンガーの「状況的学習論」の人工物の文化的透明性の議論は、現代のソーシャルメディアにも使えると同時に、ソーシャルメディアについての文化的透明性を見ていくことで、状況的学習論の新たな展開も可能になると思う。
残りの議論は続報で。
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